頭を打ったのは七つのときだった

 ひょっとして六つだったかもしれない。
 小学校のアスレチックが最高の遊び場だったわたしは「女のくせに」といくら言われても楽しくて、「無茶」って言葉もかわいい響きくらいにしか感じなかった。
 船を模した木造アスレチックは子どもの目には空母サイズで、全長十メートルほどの真ん中あたりに丸太の橋が一本渡してあった。地面から一メートルちょっとの高さで、丸太の上には平行して太いロープが張ってあり、子どもたちはそれを手繰り寄せるように橋を進んだ。
 あるときわたしは丸太の途中で立ち止まり、プロレスラーがロープにもたれかかるのにそっくりな姿勢をとった。ふと、ロープに腰掛けてみたくなったからだ。両手を左右に広げ、強くロープを握りしめ、それから、ありったけの力で体を持ち上げた。両足が丸太から打ち上げられ、ぎりぎりと硬いロープがお尻に食い込んだ。
 着地成功。
 風が吹き、校庭に、わたしだけの海原がやってきた。
 以後、わたしは何度となく、その景色を思い返すことになる。意識のほかはぜんぶが停まった静止画として。
 客観的事実によると、わたしは丸太から勢いよく両足を離し、ロープにお尻を乗っけはしたけどコンマ一秒だって静止なんかせず、大回転に挑む体操選手よろしく背中から向こう側にぐるん! とひっくり返って丸太に後頭部を強くぶつけ、芯の無い人形みたいに下の砂地へ落下した。
『デッド・ゾーン』の主人公は子ども時代の事故を遠因に予知能力が開眼した。いつかわたしにも超能力が芽生えるかもしれないけれど、今のところはまだ。わたしの場合、記憶力が鈍っただけ。ときどき、時間がごっそり抜け落ちたり、前後の脈絡がこんがらがったりするだけだ。
 そんなことを漏らすと、いかにもうろおぼえという体で「あれだよね、ほら、映画の、メメント? だっけ」とかはにかむ男、ほんと多い。観たくせに観てないなみたいなポーズとって。酒の席で、肝心な事柄を体に刺青してないか、とかニヤつきながら触ってくる馬鹿もいた。
 光太郎は、わたしの足りない記憶力を「つまり、覚え方がユニークなんだ」と評した。聞いたときには白々した気持ちになったけど、スルメみたいに味わいが、だんだん増してきた。

 大学を卒業すると、デパートに入ってる喫茶店でアルバイトを始めた。そのうちデパートの社員さんたちとも顔見知りになって、ときどき飲みに誘われた。光太郎に車で迎えに来てもらうと、予防線を張ってるようにとられて敬遠されるかもとか考えたけど、歳の離れた男性たちはむしろ安心してわたしを誘い、おごってくれた。
 フリーターとして迎えた二度目の夏の真っ只中、ちょっと手伝ってくれないかと催事担当の部長さんに頼まれた。人出が不足してるのでバイト休みの日だけでも、と。十二階の催事場で行われる〈世界の時計展〉という催しで、時計ぜんぜん詳しくないですと断ったのに、パンフレット配るだけだからと頭をさげられ、断るに断れなかった。
 生活は、そんなふうにいきあたりばったりして、軸がない。
 ときどき思う。頭を打ったあの日、わたしは分裂した。多重人格とかじゃなく、隣り合う世界の自分たちを、ひとつの意識がぴょいぴょい渡り歩いてる感じ。喫茶店での仕事がその印象を更に強くする。来る客、来る客、ぜんぜん違う。わたしの働くお店は個人経営で、マニュアルも存在せず、店員の振る舞いは口伝で受け渡されてくものだから、伝言ゲームと同じでどんどん変化する。いらっしゃいませ、の言い方ひとつにも流行りがあって、「ませー!」だけ強めに言うのはさすがに店長に咎められた。お冷やに入れる氷の数も人によって違う。コーヒーの濃さだって、たてる人によってズレる。アインシュタインは時間の流れも人それぞれと見抜いたけど、実際のところ、なにもかもが人それぞれだ。ワタシンシュタインはそう思う。思うだけで、どうってことないけど。

〈世界の時計展〉が始まる前日、ひとりの男性社員が喫茶店にわたしを訪ねてきた。夕方になり客も少なかったので、隅の席を使えという店長の言葉に従った。男性は名刺を出した。松賢次、と硬い紙に立派な字で記されてる。
「すみません、このたびは、無理を言って」彼は頭を深々と下げた。いえ、とわたしは返した。マッケンジーって仇名でしたか、と訊きたくてうずうずしてた。席に着くと松さんは黒い表紙のパンフレットを出した。
「今回の展覧会は、お聞きになっているかもしれませんが、世界に名だたる一流ブランドが一堂に会する、そういう催しです。高級腕時計と聞いてどんなブランドを想像しますか」
「ロレックス」とわたしは答えた。
「ほかには」
「あの、すみません、わたしぜんぜん詳しくないんで、もしこれ、テストとかそういうんだったら、やっぱりわたしぜんぜん役に立てないと思うんで」
「そんな、すみません、こちらこそ」松さんは、地べたに張りついてるくらいに落ち着いたトーンで謝った。そのあたりでようやくわたしは彼の外見に焦点を合わせた。三十手前か。細身で、髪の黒さが照明の光を吸い取ってしまいそうなくらい濃い。顔つきは誠実そうな端正さ。松さんはカタログの表紙をめくり、目次ページに並ぶブランドの名を読み上げた。
「ブランパン」「ゼニス」「ヴァシュロン・コンスタンタン」「ブレゲ」「フランク・ミュラー」「オーデマ・ピゲ」
 どれも知らない。
「ロレックス、カルティエ、オメガ、このへんはご存知ですよね」
「ですね。うん、え? これ、この時計、ちょっと待ってください、一、十、百、千、万、十万、百万、千万、え、三千万?」
「そうですね」
「腕時計一本で?」
「そういう催事なんです」
 松さんはやっぱり落ち着いたトーンで言った。
「あの、やっぱりわたし、お手伝いできないです、こんな高価なの」盗んじゃいそう、という一言は飲み込んだ。
「入口でこのパンフレットを配布する手が欲しいんです。聞いてませんか」
「聞いてますけど」
「では、催事場に上がって、そこで説明しましょうか。いまちょうど設営中ですし、会場の雰囲気をつかんでもらうためにも」
 そしてわたしたちは十二階にあがった。

2

 腕時計が、わたしはたいして好きじゃない。嫌うほどの理由もないけど、少なくともわたしには必要ない。
 第一に、わたしは時間にルーズとされている。遅刻するだけじゃなくて、着くのが早過ぎることだって多い。わたしに言わせれば、待ち合わせの時間きっかりにその場所にいれるほうがどうかしてる。だって、そのためにはいくつも見過ごしてこなくちゃ駄目だ。移動を移動だけに押し込めてしまう、そんな感じに。だけどわたしは、歩いてるときに何か気になると一旦そちらに意識を集中させないことには足を動かすことだってままならなくなる。それがわかってるから、なるべく遅刻しないよう早めに出るのに、約束の三十分前に到着して待ってたって誰も褒めてはくれない。まあ、それはどうってことない。
 もうひとつ、腕時計の「どうせなら」ってスタンスも好きになれない。時間を知るだけなら飾りなんか要らないのに、腕時計はデザインも多様で、そこにわたしは「どうせなら飾り立てよう」という思惑を見る。さすがに今の世の中、時刻を知らずに生きてくのは無理だけど、たとえば空に、いつでも誰でもどこからでも見えるよう時刻が表示されていたら、時計なんて誰も持たなくなるだろう。そうなれば、わたしの頭もあっちこっち飛ばなくなるだろうか。

 松さんのことは、そういえば前に見てた。去年の夏。お好み焼き屋で。最小限の動きでヘラを操り、遠目にも見事な焼きっぷり。狙いを定めてさっとやる。そんな調子で、向かいに座る女性のぶんも焼いてた。
「松さんて、お好み焼き焼くのうまくないですか?」
 催事場から喫茶店に戻る途中に訊いてみた。
「普通だと思いますけど」
「絶対うまいと思うんですよね」
「うまいって、どういうことですか。焦がさないとか、きちんと火が通ってるとかなら、それが普通だと僕は思いますけど」
「そういうんじゃないです。ちがくて、あの、ヘラ? あれの使い方がうまいと思ったんです」
「見たことあるみたいにおっしゃいますね」
「あ、はい、たぶん、前に」わたしがその店の名前を出すと、松さんは「じゃあ、やめましょう、その話題」と遮った。
「あんまり楽しい話にはならなさそうなんで」
 今度は穏やかに、微笑みさえ浮かべて松さんは言った。
 すばらしい捌き方。でも、光太郎ほどの吸引力はない。

 光太郎には一目惚れだった。
 とはいえ、恋愛なんて基本どれも一目惚れだとわたしは思ってて、なぜなら恋愛感情はデジタルなものだから。あるかないか、ふたつにひとつ。恋に落ちる、とはうまいこと言い当てたものだ。そう、落ちる。逆に、冷めるっていうのはよくわからない。落ちるの反対なら昇る、とか、飛んでっちゃうとかのほうがしっくりくる。くるけど、でも、現実はそこまで図式的じゃない。
 恋に落ちる。落ちたあとは地下を這って進む。その地下道が息苦しくて真っ暗闇な横穴か、レールの敷かれた地下鉄のトンネルか、うきうきしちゃう地下商店街か、落ちてみなくちゃわからない。
 大学一年のときに光太郎と知り合った。夏休み、自動車学校での出来事。ビデオ講習を受けるため教室に入ろうとしたとき、出てくるところだった彼とぶつかった。どん! それだけならただの事故だけど、わたしたちはどちらも『2001年』のTシャツを着ていた。ア・スペース・オデッセイ。恥ずかしさを感じるより先に光太郎が「あ、おそろ」とわたしを指した。指一本で、わたしは落ちた。

 2001年、わたしはまだ小学生だった。映画も服も男の子も、わかりやすいのが好きだった。苦手なものは国語。教科書を読んでても混乱してばかり。文脈というのがぜんぜん読み取れず、こちらの文章とあちらの文章をひょいと入れ換えても何も問題なく見えた。注意されたり、叱られたりするたび、頭を打ったときのことを訴えた。一度、母に病院へ連れてかれて、スキャンをとった。異常なし。神経性のちょっとした不調でしょう、という診断を授かった。クラスの男子にいわせれば、ただの馬鹿。
「2001年の記憶ってどんなん?」
 光太郎に訊かれてわたしは頭スキャンを思い出した。でかい機械。ごんごんごん、って低い稼働音。でっかい船の底を歩いてる気分。地球上に自分はいない、って感覚。あー、スペース・オデッセイ。
「でもさ、もう過去にしかないっての、不思議じゃない?」と光太郎は笑った。
「なにが?」
「2001年。映画とか原作とかができたときには未来だった、んで、時は流れてほんもんの2001年がやってきて、例年どおり365日でさよならした。こっから先は永遠に過去でしかない。てなるとさ、あの映画、すげえ宙ぶらりんに思えてくんだよな。魔法解けたあとのカボチャみたいな」
「ねえ、いま何年だっけ」

「1995年」
 弟が答える。弟は、幼稚園に通ってるころから、年号まですぱっと答えられる子だった。人間社会向けにカスタマイズされてから生まれたみたいな。
 わたしは予定日より一ヶ月も早く生まれた。初産だったから、と母は言う。母さんの体に異常はなかったのかと質問すると、母は答える。そりゃ痛かったよー。そうじゃなくてわたしが知りたいのは、母の体にわたしがいろいろ置き忘れてきたんじゃないかってことで、たとえば読解力とか、たとえばお刺身を食べられる能力とか、右と左を瞬時に判断できる頭脳とか。なくてもどうってことないけど。

3

「ぼく、時計の修理工になるんです」
 いつからかわたしの前に男の子が立っていて、十歳かそこらの、小太りで髪の硬そうな子。黒いポロシャツにジーンズを履いた、わたしよりずっと背の低いその子は、パンフレットを受け取るや宣誓した。
「すごいね、よく知らないけど、すごく難しそう」
 男の子の指が、ほっそりと美しいものだってことにわたしはそこで気づいた。瞬間、釘付けになった。体格とちぐはぐの、そこだけ別人のを移植したみたいな。確かにこの指なら、複雑に繊細な機械と相性良いかも。
 前の日、展示会用のパンフレットを一冊もらって、帰りの電車で目を通した。集められたものがどれほど高価なのかってのをまず思い知った。複雑機械式時計の写真を見てると、そりゃ高いよね、と納得もできた。大小様々、100や200はくだらないゼンマイがみっちりして、普通の人間なら複雑すぎて踊り出しちゃいそうな機械を、緻密に、丁寧に、馬鹿みたいに念を入れて組み立てる。愛か狂気が無ければとても無理。買う側にも同じだけの感情を要求されそうだった。
 目の前の男の子には、愛も狂気も、まだ無さそうだった。
「どこに行けばいいですか?」
「え?」
「修理工になるには、どこに行けばいいですか?」
「あー、えっとね、ちょっと待ってね」
 わたしは背伸びして、会場内を見渡した。お客さんは高級な身なりの中年か老人男性が大半で、男の子もだけど、わたしも相当場違いだった。就活用のスーツなんか着込んじゃって、弟の彼女に借りたモスグリーンのパンプスはちょっと窮屈だし、絆創膏はとっくにずれてるし、背伸びなんかしたおかげでよろめいてしまった。
「だいじょうぶですか」
 どこから現れたのか、松さんがわたしをつかんでくれた。
「あ、ごめん」
 言いながら体を立て直す。紫色のネクタイをした松さんは、前日よりきれいに磨かれて見えた。
「えっと、この子がですね、時計の、職人?」
「修理工です」
「それになりたいから、なりかた教えてほしいって」
 松さんは男の子の前に立ち、「好きな工房があるんですか」と訊いた。男の子はいくつかの名前を並べ、ひととおり聞いたあとで松さんは「いっしょに聞いてまわってみましょうか」と提案した。わたしはそこから動けない役回りだってことを痛感した。

 昔、頭打ったから。
 そうやって言うと、たいてい笑われる。スキャンでも撮ってもらえば、と勧める人もいるけど、穏やかな笑みに「実行済み」とは言い出しにくい。冗談に留めておいたほうがいい事柄が世の中にはある。沈黙を守るべきことも。冗談も深刻も数が過ぎるとつまらない。ギャグが見る間に食べ尽くされてくのと同じ。人はみんな新商品好きのピラニアだ。でもピラニアは滅多に人を襲ったりしないと聞いたこともある。母が言ってた。一口餃子を食べてるときに。
「これ、なにかに似てる」と言い出して辿り着いたのがピラニアだった。
「ピラニアってこんな形だっけ?」わたしはまた忘れてる気がした。
「知らないけど」と母はこともなげに返した。
 それは、弟の恋人からの手土産だった。わざわざ焼かなくちゃいけないようなの持ってくるあたりがね、と母は嘆息した。
 でも結局、母はその子と仲良しになった。時間の正体は、気紛れな接着剤なんじゃ、とかわたしは思う。ふたりが別れたあとも母と彼女は友達で、弟もどうってことなさそうだった。

「おつかれさまでした」
「あ、どうも」
 初日の手伝いを終え、松さんに誘われて飲みに行った。居酒屋で、ビールで乾杯した。
「一日立ち仕事で、足が痛くなってませんか」
「喫茶店も立ち仕事ですよ」
「食パンを踏んだことありますか」
「はい? 食パン?」
「はい」
「ないです、なんですかそれ」
「パンを踏んだ娘という、童話かな、物語があって、ある少女が水たまりを渡るときに、靴を汚したくないという理由から、持っていたパンを水たまりの真ん中に置くんです。そこを踏んで向こうに飛ぼうと考えて」
「あの」
「ところが、パンを踏んだ娘は水たまりに沈んで地獄に堕ちます。僕も就職して最初は売場に出て、一週間くらいは足が痛くて、毎日、素面の千鳥足でした」
「わたし三日で慣れましたよ」
「それで、床が正方形に区切られているのを食パンに見立てて、自分が立っている場所からはみだしたら地獄に堕ちると決めたんです。ですから、もし足が痛くて立っているのもままならないということであれば、そのやり方を勧めようかと思ったんですが」
「ていうか、真面目に言ってるんですよね?」
「冗談で地獄に堕ちる話なんてしませんよ」
「そうかなあ」
「しますか」
 松さんの言葉は最小限の波しか立てないよう配慮されてるみたいにフラットで、「しますか」も問いかけなのか誘いかけなのか、はっきりしない。
「地獄に堕ちたことありますか?」とわたしは訊いた。
「記憶にある限りでは経験ないです。前世ではどうだったか、わかりません」
「松さん、真面目すぎって言われません?」
「言われたことないと思います」
「じゃあきっと覚えてないんですね」
「記憶力は悪くないですよ」
「ならしっかり覚えて、松さん、真面目すぎ」
「はい、覚えました」
「マッケンジーって呼んでもいいですか」
「いいですけど、ふてくされますよ」
「マッケンジー」
 松さんはビールを飲んで、表情を崩した。

4

〈世界の時計展〉は最終日を迎え、わたしと松さんはその夜も飲みに行き、修理工志願の子の話になった。スイスのメーカーの担当者がとてもよくしてくれたという。時計の修理工なんて地味な職に憧れる、その経緯がわからない。わたしのつぶやきに松さんは「立派な仕事ですよ。褒章を授与された人もいるんです」と返した。
「あの子は何年も修行に身を置くことになるでしょうね」
「え? もうスイス行っちゃうの?」
「中学校を卒業してからですよ」
「修行かあ、えらいな」
「本当に思ってるんですか、偉いと」
「うーん」
「僕は大学で仏教概論という講義を履修していたんですけど、担当だった女性教授、随分と高齢でしたが、彼女が言うには現世では誰しも修行の真っ最中ということらしく、半人前だから失敗もするし挫けることもあるけれど、それを素晴らしいと言うんです。この修行は最後まで清算されることがない、だからこそ取り組み甲斐があると」
「それって選択制?」
「そうですね、必修課目ではなかったです」
「じゃなくて、修行のほう。やりたい人だけ事前申告で参加するとかじゃないと、わたし困るんだけど」
「どうしてですか」
「修行とかきつそう。それよか、好きなことやりたいだけやるために生きてるんだよって言われたほうが、あるでしょ、生き甲斐」
「快楽主義者なんですか」

「光太郎でしょ、快楽主義は」
「俺は違う。俺のは、嫌なこと回避主義」
「なにそれ」
「良い方角を見んの、常に、常に! あたり一面、やなことしかないなんてないだろ。だいたいさ、俺思うんだけど、なんのために目ん玉ふたつあるんだって話。ほら、こうやって片方隠すだろ」言いながら光太郎はわたしの左目を掌で覆った。「見え方違うだろ。右目だけで見るのと左目だけで見るのと、ぜんぜん違うだろ? 両目開けて見るのも違うだろ? ぜんぶ間違いじゃないし、どれも完璧じゃない。やなことあったからってそいつばっか追っかける必要なんかないんだって、視界にほかのもんもあるだろ。二匹のウサギを追っかけると一匹も捕まんないかもしんないけど、一匹だけ追っかけたって捕まえられる保証もなし、二匹追っかけないことにゃ二匹捕まえるなんてそもそも無理なわけで」
「二羽」
「あ?」
「ウサギの数え方。一羽、二羽」
「だからさ、俺が言いたいことは、仲直りしよってこと」
 光太郎はわたしを抱いた。

「快楽主義者じゃないけど、でも、普通でしょそれが、普通に考えて人は楽しく生きたいもので、なのになんでわざわざ苦しむのを前提に、それで歩けとかって言わなくてもいいのに。上見んな、下見とけってことじゃん」
「でも現実に、人生はきついことを多く含みます」松さんは、文鎮でも置くみたいに重たく言った。
「そんなことない。人は、良かったことのほうを記憶しにくいだけなんです。やなことが多く感じるのは、そっちはしっかり覚えちゃうからで、それは、つまり、同じ間違いをできるだけ回避していくための本能で、そう、だから逆に、しあわせなことを忘れるのは何度でも新鮮に味わいたいから」
 言葉が切れると松さんのわたしをまじまじ見る目が至近距離にあって、やばい、と思ったわたしは身を退いた。
「馬鹿だって思ってるでしょ」
「思ってないですよ」
「子どものころ、よく言いましたよね、馬鹿って言うほうが馬鹿だって、あれって負け惜しみだと思ってたけど、でもほんとは、本当なんだって今は思える」
「僕は一回も言ったことありません。それに、馬鹿だなんて思ってないです」
「思っていいですよ、そしたらそのぶんだけ、マッケンジーが馬鹿になるから」
 はは、と彼は笑った。
「じゃあ、わたしそろそろ、彼が迎えに来るんで」
「彼?」
「あれ? 松さん、いま驚きました?」
「まあ、ちょっとは」
「なんですか、わたしに彼氏いるのが驚きですか」
「いえ、いや、でも、そうですね、昨日か今日、新しい彼氏ができたというのでなければ。それはそれで、僕みたいな人間には多少の驚きを感じる展開ですけど」
「なにそれ」
「恋人とは別れたって話してましたよね、一年も前に」

 そうだ。一昨日の晩。やっぱり飲んでるとき、松さんは、わたしの手首を指さした。
「どうして着けてるんですか」
 電池を入れ換えても、時間を教えてくれない時計。文字盤に鳥籠のデザインがあしらわれ、長針の先にいる青色の鳥はもう何も追いかけない。ていうアクセサリー。
「好きだから」
「かわいいデザインですね」
「いいよ、合わせてくれなくて」
「本心です」
「いいですって、わかってんだから、心の中でどう思ってるかくらい」
「どう思ってるんですか」
「無駄。無意味。貧乏くさい」
「プレゼントですか」
「そうですよ、いけませんか」
「振られたんですか」
「いいえ、振ったんです、わたしから別れてあげたんです」
「ひとつ、アドバイスをいいですか」
「求めてません、ていうか、もう昔の話、一年も前に終わった話なんだから」
「お湯割りのほうがおいしいですよ」
「は?」
「ロックじゃなく、芋焼酎は、お湯割りがいちばんおいしい飲み方です」
「あのね、松さん、夏ですよ、もう終わるけど、まだ夏。わかる? 松、夏。鍋、食べないでしょ、松。セーター着ないでしょ、夏」
「関係ありません、時期なんて。いいから飲んでみましょう」
 勝手にボタンを押して、飛んできた店員にお湯割りふたつを頼む松。
 腹が立った。
 お湯割りにすると芋焼酎は踊るみたいに甘い香りを湧かせ、味もふくよかになった。まだわかんないです。そう言っておかわりした。二杯目はそこまでおいしいと感じられなくて、だけど普通においしくて、もう一回ロックを注文して飲み比べたけど、ロックに罪は無いけど、松さんの意見にわたしは染まった。
「地元ではみんなお湯割りで飲んでます」
「どこですか、マッケンジーの出身」
「鹿児島です」
「なんか鹿児島弁言って」
「いやです」
「聞きたい」
「飲み過ぎですよ」
「松が飲ませた」
「勧めただけです、飲ませてはいません」

 バスを降りたのは、わたしたちだけだった。真夜中近い時間。太陽が遠く離れたことを歓喜する蝉たちの大合唱。昔はこんな遅い時間に蝉は鳴かなかった、と母は毎年言う。きっと一生言い続けるんだろう。そういうのは悲しい。人生は超巨大な迷路競技で、歳をとるのはつまり、行き止まりをたくさん知ることにほかならない。若い時代には、歩いてきた道のりと、途中途中で気になったけど通り過ぎた分岐点と、そういうのが話題の中心だけど、どれも中途半端っていうか、未完の何かだ。ひきかえ行き止まりはしっかりしてる。これ! って形を獲得してるから、人にもわかってもらいやすい。わたしの行き止まり。光太郎と別れた。でもまだはっきりした形じゃない。松さんの手を握り、すごく細くて、だけど硬い、初めての感触で、わたしはもっと力を入れた。
「松さんは、彼女いるんですか」
「いますよ」
「あ、あれか、お好み焼き」
「遠距離恋愛なんです」
 言われて、わたしはふきだした。
「なんですか」
「ごめん、でもなんか、マッケンジーの口が『恋愛』とか言うのがおかしくて」
「すみません」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「だいじょうぶじゃないですよ、もう一年も会ってないし」
「えーとね、松さん、それ終わってます」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「僕も馬鹿じゃないので」
「じゃあ、彼女いない、って言いなさい」
「いやです」
「なーんで」
「言いたくないこともあります」
 道の先にシャッターの降りたスーパーが現れて、新しいマンション、金物屋、郵便局、古いマンションと続く。街灯は濃いオレンジ色で、あちこちくっきり見えるけど明るい印象じゃなく、単色で印刷された、誇張された立体感のある絵画みたいで、足がぐらついた。松さんにもたれかかり、だけどすぐ離れて、それでも手だけはつないだままにしておいたから掌のあいだはとっくに汗だくで、少し休憩しませんか、と訊ねると、松さんは、まだ遠いんですか、と訊き返してきた。遠い、とわたしは言って、小学校に彼を引きずり込んだ。

5

 五つになるまでわたしたち家族は栃木の奥まった土地に住んでて、まだ新しい住宅街は周りを畑に囲まれてた。荒れ地に降り立った住宅街型UFOみたいな場所。少し離れたところに葬儀場があって、白と灰色のきれいな建物だった。
 母に質問したことがある。どうして命あるものが死んで、命のないものが死なないのか。五つだった。あるいは四つ。母もそのときのことは覚えていて、なにも答えられずにいた理由を「あんたが怖かった」と説明するけど、その問いの答えは簡単で、命が消えることが死ぬことだから。
 霊柩車が出発する前に鳥籠から白い鳩を何羽か解き放つことがあった。鳩たちは集団で上空を目指し、地上で目を細める人たちに見せつけるように、まだ低い位置でぐるりと円を描いてから、もう一段高いところ目指して羽ばたいた。霊柩車がクラクションを響かせると人々の目線はそちらに引っ張られる。鳩たちはいつのまにか空からいなくなる。
 ジョン・ウーの映画で鳩が舞うたびに光太郎はくすくす笑った。わたしは目を逸らした。
 どうってことない。どうってことない。
 そんなやり方、どこまで通用したっけ?
 ある時点まではどんなしくじりも別の何かに変えてこれた。悔しくて頑張るとか、同じ間違いは犯さないとか。
 いくつになっても「どうってことない」とつぶやき、だけどそれが指し示す方角は太陽みたいにじりじり移動して、そのうち暗くなって何も見えなくなる。
 彼がもういないことも、どうってことないんだっけ。わたし、いま、いくつだっけ。

 深夜の小学校を照らす月は薄い雲に隠れてもやもやした輪郭で、明るいのは明るいけど校庭に影はない。むしろぜんぶ影。ライトは熟睡、校舎も息を潜めるみたいに真っ暗。
「ここで頭打ったんです」
 木造アスレチックに松さんを導いて、自分の工作を褒めてほしがる子どもみたいに紹介した。ずいぶん縮んでしまったアスレチックに登って、座った。松さんも隣に来た。わたしはその場に寝転がった。薄雲は天にべったり張り付いたみたいに動かない。生温い風が、わたしを撫でていく。
「僕も横になっていいですか」
「許可なんていらないよお」
 変な声。仰向けになると変な声。松さんは音もたてず横になる。わたしは体の向きを変えて、彼にキスした。あー、やっちゃった。どこかに適当な理由が浮いてないかと目を動かしたけどなんにもない。松さんは松さんで驚いたふうですらなくて、あれ? とわたしは思った。いま、キスしたかな、それともこれからするのかな。わからなくて、唇を押しつけた。不器用にパラパラ漫画をめくるときみたいに、いくつかの場面が飛び飛びに見えては消え、彼から離れた。
 わたしは立ち上がり、「もう一回打てば戻るかも」と言った。
「どうしたんですか」松さんが上半身を起こしてわたしを見上げた。
「このロープにもう一回座ってみます。そして頭打ちます!」
「なに言ってるんですか、そんな、危ないですよ」
 言いながら、松さんも立ち上がった。わたしは丸太の上へ、太いロープを掴んで踏み出した。
「危ないですよ、やめてください」
「平気平気」
「頭打ってどうなるんですか」
「元に戻るんです。ここで頭打ったあのときに戻って、まともな頭でやりなおすー」
「待って」
 松さんに手をつかまれ、足場の確かなところへ引き戻された。
「頭を打つのは本当に、本当に危ないんです。見た目にわからなくても、取り返しのつかない事態に陥ることだってあるんです」
「そんな、大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃありません、地獄ですよ、そういう人を僕は知ってる。だから、そんな」
「松さんともここでお別れです。わたし、子どもに戻るんで。ちょっとさびしいけど、もしかしてまた二十年後とかにこうして会うかもしれないですよね。今度はもっとシャンとした女になってるんで、どうか惚れてやってください」
「ちょっと酔ってるだけですよ、すこし醒まして」
「えー、素面ですよ。だから、ね、もう離してください」
 振り解こうとすると、松さんは全部の力を一点に集中するように、わたしを握る手に強く力を込めた。

「いったいたいたいたい」
 いくら喚いても、松さんは離そうとしなかった。痛いってば! 離してよ! どれだけ言っても聞き入れてもらえなくて、わたしはとうとう叫んだ。
 光太郎!
 あ、と思った。景色が、水飛沫みたいにパンと跳ねあがった。体が軽かった。光太郎の顔が浮かんで、だけどそれは頭の後ろ、目には見えないところに浮かんでるのが感じられるだけで、体の向きがぐるんと変わっても光太郎の顔は夜中の太陽みたいに隠れっぱなしで、どこかを強く引っ張られる感じがして、その先に松さんが壊れちゃいそうな表情でいるのが見えて、おかしくて、わたしは笑った。笑いながら、松さんといっしょに落ちた。

「時計の修理工になるんです」
 はやくあの子が修理工になって、世界中の時計という時計を直してくれないかな。そしたらきっと、わたしも直してもらえる。長く大変な修行期間を乗り越えて大人になったあの男の子は、こう訊くだろう。どこまで戻しますか?
 あれは、いつだったろう。わたしが頭を打ったのは。



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