ジャングルのジム

 飛び降りてもいいかな、と夫に聞かれたとき、私の喉から変な声が出た。驚いたのか、呆れたのか、どっちつかずの声が夕暮れどきの校庭に短く響いた。
 小学校から電話がきたのは午後早い時間で、「息子さんが怪我をしたので迎えに来てください」と言われたときにはもう走りだしていた。校庭のジャングルジムから飛び降りて派手に足をくじいた息子が痛くて歩けないと泣いてたから、近くの病院まで私がおんぶして行った。長いこと抱っこもせずにいたことを、ずっしりした重みと、泣きじゃくる声の懐かしさで思い知った。
 幸い、骨に異常はなく、捻挫ですんだ。いい気になって暴れるからよ、と診察室で叱ると、男性医師は「いっぱい動きたいもんな」と息子の味方にまわった。
 会計を待っていると夫が現れた。怪我して呼び出されたことだけ伝えた私は、その後、ケータイを見るのも忘れていた。スーツ姿で、外回りの途中に抜け出して学校に向かい、病院ですよと教わったという。息子を見た夫は、大きく息を吐いた。華奢な体がそのまま崩れそうなほど安心したようだった。
 帰り道は夫が息子をおんぶしてくれた。陽が落ちかけていて、スカートの下が生足だったことに風の冷たさで気づいた。
 息子の荷物を引き取るため小学校に寄り、職員室に報告も済ませて外に出た。校庭の端で夫がジャングルジムを眺めていて、その背中で息子は寝ていた。
「俺、子供のころジャングルジムを人の名前だと思ってて。木から木にひょひょいって飛び移るような。俺そういうの苦手だったから。てか、こいつの向こう見ずなとこ、誰に似たんだろな」つぶやいて夫は息子の尻を軽く叩いた。
「うち、狭いのかな」と私は聞いた。「うちでもよく体ぶつけたりしてるでしょ。体が成長して、部屋に合わないとか」
「引っ越そうか」
 突然の提案に、私は「本気?」と返した。いまの部屋だってかなり吟味して選び、インテリアだって時間かけて好きな物を集めてきた。でも、息子が生まれる前に始めた暮らしだ。私たちの役割が「親」に変わったように、部屋にも役割があるんだろう。だからって、簡単には決断できない。
 黙っていると、夫が一歩前に出て聞いた。「飛び降りてもいいかな」と。
「一回くらい、ジャングルのジムになってもいいだろ」
「そんな細い足で? パパにまで怪我されたら困る」
「それ言われちゃうとなあ」悲しそうな表情で夫はジャングルジムを見上げた。
「じゃあ私やる」
 夕焼けはいまにも夜に追いやられそうだった。あちこちペンキのはげた遊具に私は手をかけ、鉄の棒を踏んで体を持ち上げた。パンツ見えるよ、と夫が笑った。気にせずてっぺんに到達し、そこで仁王立ちになると、夫が「ジムー!」と声援をくれた。その声で息子も目を覚ました。起き抜けに、もう目をわくわく輝かせる顔は、幼いころの自分を見るようで、私は飛ぶ前に引っ越しを決心していた。
 やっ! 無意識の声とともに飛んだ私に、息子は声をあげた。
「パンツー!」

◎住宅関連の広告のために書いたショートストーリー。福岡のフリーペーパーに掲載されました。

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