両親の衣替え

 三十年近くも暮らした一軒家は、中身をぜんぶ運びだされて空っぽになっていた。
〈こうなっちゃうと、懐かしむこともできない〉
 ネットにつぶやいてから、リビングだった部屋の窓を開けた。
 真夏の重たい風が、誰かに押されたみたいに部屋へ吹き込んできた。
「あーあ」
 母の声に振り返ると、ダイニングの天井を見上げている。弟がケチャップでつけた染みが頭上に残っているのを私も思い出した。
「やっぱりぜんぶ張り替えておくんだった」と母はぼやいた。身だしなみを気にするみたいに。
「そんなの住む人の好きにさせればいいじゃん。こんな古い家買おうっていうんだから、あっちだってそういう目論見でしょ」
 かつてソファが置かれていた床に私は腰を下ろした。とても広い部屋に見えた。
 実家がなくなることを聞かされたのは半年前で、両親はすでに新しいマンションの購入まで終えていた。私と弟が独立して十年以上経過している。帰省した回数は干支の動物たちより少ないだろう。両親の決断に異議を唱える資格がないのはわかっているし、弟に至っては最後に一目見ておこうというつもりもないらしかった。
 約束の十分前に、次に暮らすという家族がやってきた。私と同い年の夫婦と、五歳と一歳の男の子たち。母は孫を出迎えるみたいに、朗らかな笑い声で歓迎した。以前にも何度か顔をあわせていて、家の案内も済んでいるものの、子供たちは連れてきていなかったから、引っ越し前に一度見せておきたいそうだった。
 挨拶をすませてしまうと、私は引っ込み思案な幽靈みたいに隅っこでスマホをいじっていた。
〈次に住む奥さん、美人だよ〉
 弟にメッセージを送ると、すぐ返信がきた。
〈写メ! 写メ!〉
 バカか。そう返そうと思ったとき、大きな笑い声を耳にして私は顔をあげた。幼い子供ふたりがソファのあった場所に寝転がっていた。そこをスタート地点に、お兄ちゃんがごろごろと床を転がってみせると、下の子も続いた。汗で湿った髪が顔に張り付いているのに、とても気持ちよさそうに大笑いしていた。
 ローンも払い終えた持ち家をなぜ手放すのか質問したとき、父は「衣替えだ」と答えた。両親の新居となるマンションは、客間がひとつあるほかは自分たちの好きなものだけを詰め込んだコンパクトな間取りで、弟にそれを伝えると〈暮らすことと生きることがチグハグになるのが嫌なんだろ〉と返された。
 子供たちが部屋の端に転がり着くころ、弟からメッセージが来た。
〈これとおんなじ構図で撮れば怪しまれないじゃん〉
 送られてきたのは、新築だったその家に私たちが越してきた日の一枚だった。これから始まる暮らしにわくわくしているのが、皆の表情から伝わってきた。
 新しい家族たちに同じところに立ってもらうと、「おばあちゃんも」と五歳の子に手を引っ張られて、なぜだかうちの母も混じってしまった。
 賑やかに立ち位置をきめる様子を眺めながら、私はまだ膨らんでもいないお腹に触れ、この子と暮らすならどんなところだろうかと想像をめぐらせた。

◎住宅関連の広告のために書いたショートストーリー。福岡のフリーペーパーに掲載されました。

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