フィッシングデッド

 夜釣りに出た突堤でゾンビに会った。近ごろでは珍しいことじゃない。
 現実がこんなふうに様変わりするより前に僕もよくゾンビ映画を観ていたし、ゾンビが恋に落ちるとか、古典小説をゾンビものにお色直しした作品、ゾンビ主演の学園コメディ、シェフゾンビが人間をもてなす作品、バリエーションもいろいろとあった。思い返してみるとあれもアメリカ主導の刷り込みだったのかもしれない。最初はおぞましい存在として紹介する。そのうち恐怖が麻痺して嘲笑の対象となり、ゾンビにも人間臭いところあるよ、むしろ怖いのは人間のほうだよ、なんてメッセージが込められ、人間こそ猛省すべきだと思わせられてしまう。宇宙人についてそんな説を聞いたことがある。スピルバーグが『E・T』や『未知との遭遇』を作ったのも政府の主導で、近く姿を現す宇宙人への抵抗を人々から取っ払っておくのが目的だったと。第二次世界大戦中にウオルト・ディズニーが戦意高揚のためのアニメーション映画を作ったのと同じカラクリ。でも結局、宇宙人との交渉がおじゃんになってしまい、それどころか険悪な仲になったことを受けて、宇宙人なんぼのもんじゃい、という気概を地球人に植えつけるべく今度は『宇宙戦争』をリメイクした。それは嘘かもしれないけれど、本当であっても不思議じゃない。なぜならこの島でゾンビっぽい症状が現実に起こったときにも、人はさほど忌避しなかった。驚きはしたし、避けようともしたけれど、ゾンビたちが魚を主食にするのだと知ると共存を受け容れた。銃社会だったらまた違っただろう。
 昨晩、出会ったゾンビはネルシャツにジーンズという服装で、突堤の半ばあたりで釣り糸を垂らしていた。オレンジ色の照明に染まった突堤に釣り客はほかに見当たらず、ゾンビも自給自足なんだと思いながら、僕は距離をとった。
 ゾンビについていちばんの驚きは、体臭がほとんど無い点だ。外傷もあんまり見かけない。彼らはただただ青ざめて、のたのた歩く。治療法のない奇病で存在自体は数十年前から把握されていたというけれど、これほどまでに一般化したのは、人が食事をとおして保存料を体に蓄積してきたせいだそうだ。
 遺伝だとも言う。ぼくの近親者にゾンビは出ていなかった。
 現実のゾンビは、ホラーよりもコメディのそれに近い。舌が動かないらしく、言葉がどれもうめき声になってしまう。そんなディテールを島の外の人に伝えたところで、なんの意味があるのか、いま、この文章を打ちながらぼくはわからなくなった。
 昨晩の出来事をもっときちんと書きたかった。でも、それがなんになるのか、わからない。ネルシャツのゾンビは大物を釣り上げかけた。釣り糸が、ゾンビの手から逃げ出そうとするみたいに強く張って、いや、まあ、そんなのもどうでもいいことだ。ぼくは手伝おうとして、ネルシャツの裾を引っ張ってやった。でも力が足りなくて、ゾンビは海に落っこちた。姿を見せなかった魚に引っ張られて沈んだ。まるで魚のほうがゾンビを釣っているみたいだった。
 そんな考えに、なんの意味があるのかわからないけど。

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