キナコのダンス

 普通のワンルームって聞いてたけど、壁の一面ぜんぶが鏡になってるなんて知らなかったから、部屋に入った瞬間、「え」と声が漏れた。
 先に入ったキナコが馬鹿でかいトートバッグを床に落として、重そうな音が鳴った。
「ここがリビング、かな?」
 自信なさげに説明しながら、キナコは部屋を横切って窓を開けた。もったりとした夜風がレースカーテンを膨らませた。
「なんで疑問形。オーナーでしょ」私がつっこむと、「暮らしてないからね」と返された。
 なるほど。生活感どころか、部屋感が薄い。台所のシンクには、懐かしいプラスチックの救急箱が置かれてる。絆創膏やテーピングが収められてて、蓋の裏に私たちの作った応援ステッカーが貼ってあるはず。
「冷蔵庫もないんだね。喉かわかない?」
「水筒持ってるから」
 海岸に打ち上げられたエイみたいに巨大なトートを、キナコは爪先でしなやかに指した。
「それで、住んでくれる?」
 こっちを見て問いかけながら、キナコはきれいなたまご型の頬に手を添えた。
 私たちの出会いは中学校の入学式で、彼女の手足の長さにまず目を奪われた。彼女のフルネームを縮めて「キナコ」と呼び始めたのは私。キナコはバレエの大会で学校を休むことがあった。有名な先生の愛弟子で、獲った賞の数も半端無い。私は友人たちと応援団を結成した。彼女の踊りは幼い私たちに劣等感ではなく、自信をくれた。もうひとつの心臓みたいに力をくれた。だけど十七の夏、キナコは脚を傷めて舞台を離れた。
 世界にだって手が届きそうだったキナコは短大を経由して、スポーツジムの事務職に就いた。「ジムの事務」と、私たちは笑ったものだ。
 就職三年目に子供ダンス教室の世話を任せられた。講師ではなく、衣装の管理をはじめとする雑務係で、巨大なトートに荷物を詰め込んで、あちらこちらと動きまわっていた。
「だけど子供たち見てて、もっかい踊ろうって思った」
 それは突然の打ち明け話だった。
 二年前にマンションを買い、壁に鏡を、床に防音材を施して秘密のレッスン場を作ったという。賃貸にしなかったのは自分を追い込むためで、人生を賭けた勝負にもう一度挑む覚悟を決めたのだと。
「貯金もできたし、まずは一年、海外でレッスン通ってオーディション受けまくってくる」
 深夜の公園での告白に、私は彼女をハグして「待ってたよ」と声をふるわせた。
「ほんとは、ずっと、踊ってほしかったんだから」
「準備体操に時間とられちゃって」とキナコも目元を拭った。
 マンションは売却も考えたけど、一年後に帰ってくるかもしれないから、それまで私に住んでほしいとキナコは言った。そうして秘密の部屋に招かれたのだった。
「住んでもいいけど、条件出していい?」
「鏡なら外して実家に送るから大丈夫」
「じゃなくてさ、いま、ここで踊ってよ」
 バレエと違うキナコのダンスは底抜けに楽しそうな躍動感にあふれ、見ている私にも力を注いでくれた。動き出したもう一つの心臓にまたも目をにじませながら、いつかこの部屋をファンクラブ事務所にするのもいいなと、私は考えていた。

◎住宅関連の広告のために書いたショートストーリー。福岡のフリーペーパーに掲載されました。

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