にげて

 帰り道におしっこしたくなるのって、妖怪のしわざなんだって。
 前の年の夏、ユリは友達のミナコから、そんな話を聞いた。
 小学校と自宅のあいだは、歩いてだいたい二十分。途中に公園はあるけれど、トイレはもうずっと「故障中」のままだ。
 そのトイレで夜中に泣いてる幽霊がいるらしい。そんな話もミナコに聞いた。
「さみしくって、遊び相手を待ってるんだって」

 六年生にあがるとき、ミナコはいなくなった。
 急に引っ越したと担任は言ったが、ミナコがいなくなってからもユリはときどき、ミナコのおかあさんを見かけた。

 六月の水曜日のことだ。
 学校からの帰り、住宅街の坂道をのぼっていると、急に、おしっこがしたくなった。
 それはもう、いまにも出てきそうで、股のあいだを引っ張られているように我慢しきれないほどだった。ユリは足を速めた。走ったらすぐにも漏れる気がして早歩きになった。おなじ小学校の一年生と二年生のグループがすぐ前を歩いていて、まさかその子たちの前で漏らすわけにもいかないし、かといって、いきなり走りだしたなら、トイレに行きたくて走ってるんだとばれてしまう。
 ユリは何度も唇を内側にまるめこんで、口の中で唇を強く噛んだ。
 住宅街の角を曲がった。普段は使わない道だった。
「にげて」
 いきなり、耳元に声が聞こえてユリは走りだした。
 一年生と二年生のグループの姿は見えなくなっているのに、その子たちの笑い声が二階建ての家々の向こうから聞こえてきた。
 どこかに隠れておしっこをしてしまえないかと、目はあたりを見渡す。通学路ではないものの、知っている道だ。隠れる場所のないこともわかっているのに、ついつい、さがしてしまう。
「にげて」
 また、聞こえた。
 最初は空耳だと思ったけれど、二回目はもう、だめだ。
「帰り道におしっこしたくなるのって、妖怪のしわざなんだって」
 ユリはうしろをふりかえった。
 だれも、いなかった。
「はやく」
 ふりかえっている、そのときに、耳元でまた聞こえた。
 おどろいて前を見た。
 誰もいない。
 ユリは走りだした。
 おどろいて、こわくて、まっすぐに走った。
 そのあいだもずっと、おしっこは、いまにも漏れそうで、足のあいだに水風船を挟んで走っている気がした。
 逃げて、逃げて、逃げて。
「漏らしたくないなら、逃げるしかないよ」
 それは、ミナコの言ったことばだ。
「なにそれ、ぜんぜんこわくないじゃん」とユリは笑った。
 いまはぜんぜん笑えなかった。

 おおきなカーブを描いた道を駆け抜け、いつもの通学路に戻ってきた。
 大人の女性がひとり、どこかの家の門をあけて出てくるところだった。
 トイレ貸してください、と頼もうかとユリは考えた。
 自宅まで、あとほんのすこしだが、もう我慢できそうにない。
 あの、と走りながら口を開きかけたとき、黒い服を着た女性がこちらを見た。
 ミナコのおかあさんだった。
 ユリはそのまま声も出せずに走った。
 ほんの一瞬しか見えなかったから、違うかもしれない。
 でも、ミナコのおかあさんによく似ていた。
「逃げて!」と大きな声が聞こえた。
 耳元じゃない、うしろからだ。
 ユリは振り返れなかった。
 自宅に帰り着き、母親がいて、鍵があいていることを祈りながら玄関に飛びついた。
 鍵はあいていた。
 靴も、ランドセルも、玄関に落とした。
 トイレのドアを開けたまま、ズボンと下着をおろして体の向きをかえ、トイレに座った。
 おしっこが、勢いよく出る音が聞こえた。
 そのとき、開けたままのドアの前に、女の子が、ばあ、と姿を見せて、こう言った。
「おいついた」

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